時を放浪

今の「リアル」を発信

「 死 」

 

即身仏

 

修行者が冥想を行いながら命を絶ち、原型を保ったまま亡骸の状態になることを指します。民衆救済のため、自ら進んで即身成仏を行います。海外の安置された亡骸のミイラなどとは根本的に違います。皆さんは知っていましたか?最近YouTubeを見ていたらおすすめで流れてきたので試しに観てみたんですが、個人的には中々面白い内容でした。

 

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日本で有名な即身仏、真如海上人です。



 

この時に、あるワードが僕の頭の中で生まれました。

 

「 死 」

 

人によって「 死 」の捉え方は違うので一概には言えませんが、僕はめちゃくちゃ怖いです。本当に怖い。めちゃくちゃビビってますが、最近身近で「 死 」を感じることがありました。去年の11月に祖父が亡くなったんです。更にこの時、初めて体験をしたことが1つあります。

 

「 人が亡くなるその瞬間に立ち会う 」

 

生きていれば必ず最後には「 死 」がありますが、皆さんは「 死 」をどう捉えていますか?どう考えていますか?どのような存在だと思いますか?身近な「 死 」をテーマに今回は書いていこうと思います。

 

①薄れた「 死 」(1)

東京大学名誉教授の養老孟司さんが昔にある番組で「 死 」に対してお話ししていたのでそれを軸に書いていこうと思います。

 

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1937年生まれ鎌倉育ち

現代社会でリアルな「 死 」は徐々に薄れてます。現代に生きる人たちは、病院や事故現場などに居合わせないと「 死 」を実際に見ることは少ない。そもそも「 死 」を自宅で見なくなりつつあります。戦後直後では7割以上の人が都内でも自宅で亡くなっていました。では現代ではどうでしょうか?多くの方が病院で亡くなります。亡くなるだけではなく、生まれるのも病院です。産婆さんがほとんどいなくなった為、自宅では生まれなくなりつつあります。

 

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知らない若い人もいるかもしれませんね。

 

人間の生まれてから亡くなるまでの自然の過程は普通の生活からは消えてしまったんです。つまり自宅は日常生活が行われる場所。そこには「 死 」はないんです。日常生活から「 死 」が消えた為に現代社会では「 死=非日常 」になりました。今の人は「 死=普通ではない」ので非日常が当たり前と認識されています。でもこれは現代社会での話であり、時代や国が違いえば「 死=非日常ではない 」が当たり前です。

 

人は100%「 死 」を必ず迎えます。必ずあるものを人は遠ざけているんです。遠ざけた結果、社会的な様々な慣習が変化していきました。例えばお葬式です。昔は村でやったり地域全体でやったりしていました。それを現代では葬式を企業的に引き受ける所もできたり、お坊さんを葬儀会場に呼んで葬儀を行うなど、「 日常 」だった葬儀は「 非日常 」に変わりました。

 

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祖父が住んでいたのも田舎だったで、ちょっとした地域総出でした。

 

皆さんは下の写真を見たことはありますか?

 

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交番でよく目にしますよね

これを見て、多くの人が「今日は数が少ない」「今日は多いな」など思うんじゃないですか?交通事故などを防止するための意味があると思いますが、そう思ってしまうという事は「 死の実感 」が薄れているんです。飼っていたペットが死んだとかじゃないと「  死  」 というのに気がつかないんです。つまりは、現代の人は「 死 」というものを遠ざけ過ぎで、もっと身近に感じていなきゃいけないものなんです。

 

養老先生の体験談ですが、団地で亡くなった方がいたので2人で棺に入れて下の車まで運びだそうとしたそうです。エレベーターのドアが開き、入れようと思ったが中に棺が入りきらなかったそうです。その団地には6000人の人が住めますが、建物の設計は人が死ぬことを考えていなかった。そのぐらい日々の生活には「 死 」が薄れています。

 

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病院が広いのはそういうこと。

 

②薄れた「 死 」(2)

さっきまではお葬式の話をしましたが、埋葬の仕方も時代とともに変わってきました。今では当たり前に行う「 火葬 」。その前は日本では「 土葬 」が行われていました。

 

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祖母宅のお墓もこんな感じです

 

僕の祖母宅では大きい石がお墓の周りに置いてあって、その下にはご先祖様が眠っているなんて言われました。小さい頃にその石をけって遊んでいたら、ご先祖さまにめっちゃ睨まれる夢を見たっていうのはまたいつか機会があればお話します、、、話が逸れましたが、「 火葬 」を使い、「 死 」というマイナスイメージをすぐに無くすことで生活から排除してきました。

 

③「 生 」と「 死 」

そもそもの話にもなりますが、皆さんは「 生 」「 死 」の関係性はどうだと思いますか?多くの人が下の画像のように考えると思います。

 

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「 生 」「 死  」は対照的な存在だと思いますよね。でも実はそうではないんです。「 死 」「 生 」の中の一部なんです。なんか宗教チックな感じがしますけど、宗教的な勧誘で書いているわけではありません(笑)

 

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対象ではないんです。「 生きる 」とは必ずどこかで「 始まり 」どこかで「 終わり 」があります。

 

ここまでは日常から「 死 」というものが薄れていき、現代の中で「 死 」を実感する・見る経験というのがなくなりつつある。日常にあった「 死 」「 非日常 」に変わり、「 生 」「 死 」は対するもと認識されがちだが、「 生 」の中の一部に「 死 」というものが存在している。と書いてきました。

 

「 死 」というものに対するイメージはどうでしょうか?考えたことない人でも想像してみてください。怖くないですか?なので「 死 」とは何か?どう捉えるべきなのかを今度は書いていきます。

 

 今回、ここまで書いた内容は養老孟司先生が番組で話していた内容です。その「 死 」に対する考えを書いた本が死の壁。本も出ているのでぜひ、気になったら読んでみてください。

 

死の壁 (新潮新書)

死の壁 (新潮新書)

  • 作者:養老 孟司
  • 発売日: 2004/04/16
  • メディア: 新書
 

 

④「 死 」とは?(1)

次に「 死 」とは何かについて話していきます。今回参考にする人物はシェリー・ケーガン先生です。この方はイェール大学で講義を行っている方です。

 

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お髭がお似合いですね

 

 

 

「 死 」に対して考えることはめちゃくちゃ大事です。誰しもが必ずぶつかる問題ですよね。あまり考えたくないのも事実ですなんであまり考えたくない事なのか「 死 」

 

「 怖いもの 」だからです

 

「 怖いもの 」と思う理由は未知の存在だからなんです。確かに今生きている私たちは経験した事ないし、わからないものです。でもシェリー先生は全く未知なものではないし、簡単にイメージができるといいます。結論から言うと「 世界はほとんど変わらない 」です。例えば、誰かが病欠で学校にいなくても、自分が死んでも、俯瞰してみれば何も変わらずに動いていくんです。外部から見たら確かにそのように見えるかもしれませんが、魂、感情は一体どうなるんでしょうか。

 

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シェリー先生曰く、まずそもそも死後に魂はありません。他の動物に比べて人間は特殊な機能を多く持っていますが、死んだ後も人格だけが魂として存在するのは考え難く、人格とか思考は「 無 」になるんです。簡単に説明をするならば、夢を見ずに眠っている状態とほぼ同じなんです。何が言いたいのかというと、自分たちは「 死 」の疑似体験をすでにしているんです。人格や思考がなくなるのが怖い人もいるかと思いますが、お母さんのお腹の中にいた時、痛いことや怖いことってありましたか?人格がその時にはそもそもないのでないですよね。

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簡単にまとめた言い方をしてしまうと「 死 」というのは感覚として経験済みなんです。「 死 」というのは一種の時期でお母さんのお腹にいる胎児の時期、思春期の時期という風に人格が存在しないただの時期と説いています。

 

⑤「 死 」とは(2)

「 死 」の存在を知っても、まだ怖くないですか?僕は怖いです。多分真剣に「 死 」を考えたら実際のところ怖いのが事実だと思います。そこでシェリー先生は1つの説を解きます。

 

「 略奪説 」

 

「 死ぬのが怖い 」と思うのは死ななかったらもっといい人生があるはずと思っているから。その未来の人生が奪われてしまうから怖いと感じるんです。例えばおばあちゃんがいつ死んでもいいとか言いませんか?あれはもう人生でやりきったり、未来が奪われたりしても、奪われるものが少ないからなんです。そのため「 略奪説 」に当てはまらないんです。そのため「 死 」と言うのは特別怖いものではなくて、まだやりたい事が沢山あると奪われるものが多いため、強く感じるんです。「 剥奪説 」と言うのは未来が楽しみだから死ぬのが怖いと言うのもですが、もう1つわかるものがあります。

 

「 自殺 」

 

人間はこれからの人生が楽しみだと生きたいとなります。しかしこれからの未来が悪くなり続けるとどうなると思いますか?人間は死にたくなるんです。一生いいことは起きないと考え始めると自殺につながっていきます。

 

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普通の人なら、自殺ならダメって思うかもしれませんが、シェリー先生は「自殺は常に許されないとは言い切れない」と説いています。例えば、世の中には人生が悪くなり続ける人もいます。末期の病気で全く治る見込みがなかったり、痛みに耐えるだけに生きている人です。その人たちに生きることは素晴らしいなんて言えますか?道徳的な観点を無視するとして、死んだほうがマシと説いう状況は沢山あります。その人たちに「 道徳 」「 ルール 」で死ぬことを許さないのは、どうなんでしょうか?例えるなら

 

ヘドロでできたパイを「神様からの贈り物なんだから食えよ」というようなもの

 

シェリー先生は説いています。

 

ここが大事なんですがシェリー先生はだからこそ今起きている大半の自殺はおかしいと語っています。恋人にふられた、大学受験落ちた、就職活動に失敗した、リストラされたなどは、確かにショッキングな出来事だけど、人生が悪くなり続ける証明にはならない。末期な病気とは全く状況が違います。しかしこの状況に陥ったら視野が狭くなって悪くなり続けると勘違いしてしまうんです。そのため多くの自殺を引き起こすと説いています。でもこの気持ち自分は理解できます。自分もミスや事件が起きるとすべて終わったような気がしますが、思い返すと大したことないんですよね。。。

 

今回のシェリー先生が書いた内容は「 死 」については本が出ています。これは結構本当に面白かったので是非皆さんも読んでみてください。

 

 

 

⑥まとめ

今回、テーマにしてきた「 死 」はいつか迎える問題です。僕は今20代ですが年代よって考え方がどんどん変わっていくのかもしれません。日々の生活から薄れてしまった「 死 」をどれだけ、考えられたいけるのか。簡単に言ってしまえば「 死 」に対してもっとポジティブに考えていったほうがいいのかもしれません。「 死 」は絶対に自分たちの人生を邪魔はできません。最後に迎えてくれるだけです。だからこそやりたいことを今やらないと「 後悔 」が生まれてきて、「 死 」に対して恐怖心が消えないのかもしれませんね。

 

一度きりの人生において「 後悔 」が一番の失敗だと自分は考えています。皆さんが「 やりたい 」と思ったことは本当にやらなくていいんでしょうか?「 後悔 」がない「 選択 」がこれからの人生を左右するかもしれませんね。

 

最後にこれを書いている時に元カノの言葉を思い出しました。天然ちゃんだったんですけどいつも考えていることがあるらしく「 明日、死んでも後悔したくない 」だそうです。へーと思って聞いていましたが、この一瞬でも「 死 」に対して真剣に考えたらこの言葉は間違いではないなと思えました。

 

 

最後にみなさんに問います。

 

明日、あなたが死ぬとしたら今日という1日を絶対に後悔しませんか?