時を放浪

今の「リアル」を発信

ミャンマーの過去

2ヶ月ぶりにブログを開きました(笑)

 

最近は資格の勉強に熱が入り、パソコンを開くのを忘れていたのが現状。しかし海外でビックなニュースが報道されたため、久々にブログを書くと決めた感じ。

 

久々のブログで、文章を書くのが下手になっていないか不安だが最後までお付合いしていただけたら幸いです。

 

《 報告 》

このブログも、あと数日で開設して1年を迎えます。始めた頃の1ヶ月は夢中になって投稿し、1ヶ月で1000人の方にアクセスしていただきました。その後は特に書く事も無くのろりくらりと続けてきましたが、開設1年を直前にアクセス数が2000人を迎えようとしています。とりあえずはアクセス2000人超えを目標に書き続けたいと思っていますので是非暇な時に読んで貰えたらと思います。

 

あとヘッダーとプロフの画像も変更!

 

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かわいい後輩にお願いしたら、上手に描いてくれました。個人的には好きな描き方で気に入っているのでこの1年間はこの画像でやりきっていきたいと思います!

 今回の取り上げる内容を説明していきたいと思いますが、今回の内容は非常にタイムリーな内容です。これを機にニュースや新聞で今後の動向をチェックしてみてください。

 

早速ですが、2月1日の朝に

驚くニュースが世界を驚愕させました。

 

ミャンマー

クーデターが発生

 

私は車の運転中に助手席に座っている父親から話を聞かされ驚きましたが、この件に関しては多くの若者も驚いたのではないでしょうか?いくら若い人でも聞いたことがある民主化運動の指導者・政治家のアウンサンスーチーさんが国軍に拘束されました。5年前の選挙で大勝を収め、軍事主義から民主化に成功したミャンマーはクーデターが起き、アウンサンスーチーさんが拘束されたのか。今日はミャンマーの歴史的背景とその分岐点を探っていきます。

 

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《目次》

1、ミャンマーの歴史

(1)ビルマ連邦

(2)1962年

(3)民主主義

 

2、建国の父

 

3、クーデター

 

 

1 ミャンマーの歴史 

(1)ビルマ連邦

 ミャンマーは植民地としての歴史が色濃く残ります。イギリスが植民地領として長きに渡って占領していましたが、1948年に

 

ビルマ連邦

 

として独立する際にイギリス連邦から独立をしています。ここで国としての歴史が始まるわけですが、建国当時は内政を上手く進める事ができませんでした。

 

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  ビルマ連邦は独立の際に「議会制民主主義」の国家として発足します。「議会制民主主義」とは国民に選ばれた代表者が議会に集まり、話し合って政治を行うモノです。しかしビルマ連邦とは複数の民族が集まって出来上がった国なので、部族同士の睨み合いが発生します。どの部族も主権を握ろうと対立が深まり、内戦が絶えず、政治が安定しなかったのです。しかし、その内戦がある組織の鎮静により国家統一を実現させます。それが国軍です。国軍が内戦を収めた事により政治面でも発言権を強めていく事になりました。

 この国軍は元々イギリスからの独立を目指して創られたビルマ独立義勇軍の後身です。ビルマ独立義勇軍はアウサンスーチーさんの話で話していきますので、ここでの説明は省いて行きます。

 

(2)1962年

 国内の内戦を治め、国家統一を果たした国軍は国家運営がうまく行かない政府に対して、1962年に軍部クーデターを起こします。このクーデターにより当時の首相は退陣を余儀なくされ、これを機に軍事政権を樹立。イギリスの植民地統治により根付いていた「議会制民主主義」は民族主義が強い傾向にあるミャンマーの国軍には受けいられるモノではなかったと思います。そのためクーデターで「議会制民主主義」を完全に撤廃させて強い国を作るための舵を切ります。その舵切りに国軍が力を入れたのが

 

「経済成長」

「軍事力の強化」

 

これを目指すことによって国軍は暴走地味た政治を行っていき、貧困化などミャンマーの現代問題のきっかけにもつながっていきます。

 

 国軍は政治を掌握したのち、ネウィン将軍をトップとし軍事政権を強めていきます。議会制民主主義を安全否定したので、複数あった政党には圧力をかけ、「ビルマ社会主義計画党」の一党独裁となり、国家機関の役職には軍人や退職軍人が任命されたました。これにより長期の独裁政治が始まります。

 74年にはビルマ連邦社会主義共和国とし政治を推し進めていきます。国力強化の為に経済発展、軍事力の強化を推し進めていきますが、その為には国内の生産力を高める必要があります。そのため当時の政府は国営化が推し進められ、国民からお金を絞り取っていきます。このような強硬な政策を実施したため国内は混乱に陥り、国民の不満が溜まっていく事になります。

 

(3)民主主義

  ビルマ軍が推し進めた「ビルマ社会主義計画党」に対して多くの国民は不安を募らせていきましたが、その中でも若者たちは特に不満を募らせていきました。1988年この年はビルマにとって大きな分岐点となる年になります。民主化デモが全土で多発したのです。この抗争運動に政府は武力での制圧を行い、亡くなった方は数千人とも言われています。ここから民主化闘争は激化していき、一時は独裁政権を行使していたネウィン将軍も辞退に追い込み、民主化に一歩近づいたと思いきや、その数日後には国軍が武力行使民主化運動を弾圧するなど、泥沼な状態が長きにわたって続いていきます。

 その後1990年には軍事主義を推し進める国軍と、アウンサンスーチーさんが率いる民主化を目指す国民民主連盟とで総選挙が行われます。結果としては国民民主連盟が大勝しましたが、国軍は選挙結果を受け入れませんでした。そのため国軍は独裁を強行。アウンサンスーチーさんを自宅軟禁し政権を譲ることはしませんでした。

 しかし国民に転機が訪れます。翌年の91年にアウンサンスーちーさんがノーベル平和賞が授与されることになったのです。世界の関心は民主化運動の指導者アウンサンスーチーさんに集まりますが、自宅軟禁のためアウンサンスーチさんは舞台には出席できず国軍は世界からの非難を浴びる結果になりました。

 

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 国軍からしてみれば、世界からの非難は是が非でも止めたいもの。しかし民主化運動の指導者を自宅軟禁から解除してしまえば、国民は一層勢いづいて民主化を進められてしまう。自分たちの社会主義体制が崩され、政権もなくなってしまうと考えたのです。そのため国軍が取った行動は社会主義体制を放棄するというものでした。主義を守るレベルの話ではなく、自分たちの持っている権力を維持するようになったのです。社会主義を撤廃し、市場経済外資導入など政策を図りまますが、民主化を否定し国軍による政治を推し進めていきます。

 しかし国民の民主化デモは止まることはなく、幾度とデモを行い国軍と戦ってきました。そんな2007年に大規模なデモが勃発。このデモで国軍は国際的な非難が集中。民主化体制に拍車がかかるモノとなりました。このデモは軍によって鎮圧されますが、2011年に国軍は民政に移行すると約束。新憲法の作成し、民政が進められました。しかし新憲法の中に国軍の議席を4分の1の数を確保という規定が盛り込まれており、政権は民政へ譲渡とみれるが実質的の政権は国軍が持っていることになる。

 その新憲法を元に民政化進められ、名目上は民主主義とも捉えられるが、実質的には国軍の政治が読み取れる。その政治的歴史背景を持つミャンマーでまたも国軍によるクーデターが起きたのだ。

 憲法改正には議席の4分の3以上の可決が必要とされている。しかし4分の1を国軍が保持している以上、憲法を改正することはできない。逆を言えば、国軍向きの憲法改正を行おうとしたら武力恐喝などでいくらでも可決はできてしまう。武力という力で国民をコントロールしているのは今も変わらないのが現状だ。しかしこの武力行使は世界からの反感を買ってしまう。いざ実施したところでアメリカを初めとする欧米諸国からの経済制裁は目に見えていることだ。その中で今回のクーデーターを踏み切った国軍がどんな弁解をするのか世界から注目が集まっている。

 

2 建国の父

(1)ビルマ建国の父

 上記に記したように国軍はビルマ独立義勇軍の後進である。ビルマがまだイギリスの植民地領として存在する時代にまで遡り話していく。そもそもアウンサンスーチーさんの話でなぜ、義勇軍の話が出てくるのか。それはアウンサンスーチーの父であるアウンサンがビルマ建国の父として尊敬されているからだ。

 

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 元々アウンサンはビルマの反英組織の指導者をしていた。反英組織とは当時植民地領として統制していたイギリスに対して独立を目指す組織のことだ。アウンサンはそこで脱イギリスを目指し、1941にビルマ独立義勇軍を発足。バックには日本が支援を行い、イギリスの植民地領を奪取しようと活動をしていく。日本とアウンサンは切っても切れない関係なのだ。しかしアウンサンはそんな日本に対しても牙をむくことになる。

 翌年の1942年、太平洋戦争の開戦後に日本軍はビルマに進軍。イギリス軍と戦闘を始める。ビルマ独立義勇軍も日本軍と協力し合い戦うが、裏で抗日運動を準備していった。その3年後に反日闘争を開始して、ビルマ独立に向けて走っていった。

 同年8月日本軍が敗退をする中で、再度イギリスが植民地領のために進軍。日本軍と戦った直後にイギリスに対して抗戦したのだ。その戦いは長期化し、47年にイギリスと独立協定を結び、48年には独立宣言までこぎつける事が出来た。しかしアウンサンは独立宣言を見る前にして殺害されてしまった。

 そんなアウンサンをミャンマーの国民は「ビルマ独立の父」として尊敬され続けている。そんな父を持ち、民主化運動の指導者としてアウンサンスーチさんは国のために戦っていた。

 

3 クーデター

  今回のクーデターを話す前に、ここまでの話の流れをまとめていきたいと思います。

 

ミャンマーはイギリスの植民地領としての歴史がある。

、「建国の父」であるアウサンがイギリスの植民地支配から脱するため、ビルマ独立義勇軍を日本の支援もあり創設。その後進が現在の国軍に当たる。

、イギリスから独立をし、議会制民主主義を軸に内政を進めるが内戦が勃発。その沈静化に国軍が尽力。よって国軍に政治的力が備わる。

、1962年、内政が上手くいかない政府に対して、国軍がクーデターを実施。「ビルマ社会主義計画党」により一党独裁を樹立。軍事政権が始まる。

、1988年、軍事政権に対して国民のフラストレイションが募る。この年に国民による民政化のデモが勃発。そのデモを国軍は弾圧したが、デモは収まらず、ビルマ社会主義計画党と国民民主連盟で総選挙が行われ、国民民主連盟が大勝するも、ビルマ社会主義計画党は政権を譲ることなく、連盟のトップである民政化の指導者であるアウサンスーチーさんを自宅軟禁。より一層に軍事政権を強めていく。

、1991年、アウサンスーチーさんがノーベル平和賞の受賞を機に世界の注目がミャンマーの内政に集まる。世界からの非難もありビルマ社会主義計画党は民政化を宣言。新憲法を作成していくが中身は国軍の政権執着が見え、名目上は民政化だが実質上は国軍の政権掌握が実態であった。

 

ここまでが大まかなミャンマーの政治の歴史です。ではなぜ実質上の政権を掌握していた国軍が今回のクーデターを行う事態になったのか。ここからは最近のミャンマーの内情を踏まえて説明していきたいと思います。

 

ミャンマーには世界からの関心が高い1つの問題が存在します。

 

「 ロヒンギャ問題 」 

 

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 ロヒンギャ問題とは2017年にイスラム教徒少数民族であるロヒンギャの村を国軍が襲撃したというのが事の発端でした。なぜ襲撃をしたのかこの背景には宗教が関係しています。ミャンマーでは9割の人々が仏教を信仰していますが、西側に行くにつれてイスラム教の信仰をしている人々もいます。国軍は「イスラーム過激派が活動しているため」と言及していますが、あまりにも行き過ぎた対応に世界からは非難が集まりました。この襲撃によってロヒンギャの人々は攻撃を避けるため隣国のバングラデシュに難民として流れ込み、人数は約60万人とも言われています。この出来事は一気に国際問題として注目を集めることになり、国軍は一気に信頼と信用を失うことになりました。

 この行動には国連人権理事会の調査団が国軍系企業に金融政策を貸すように求め、国軍の資金源はなくなりました。国軍は経済面など掲げた公約で成果は上げられず、評価が下がるばかり。しかし国民民主連盟アウンサンスーチーを筆頭に力を徐々に蓄える一方で国軍からしたら本当に権限を手放す日が近くなる一方でした。

 その雰囲気が漂う中での20年の総選挙。世論では国軍が議席が減らすのではと囁かれる中で、国軍は選挙の開票直前「選挙で不正がある」と主張。しかし特に何かが起こるわけでもなく、開票されました。結果は国民民主連盟の圧勝で終わり、国軍の弱体化が進みかけたその直後に今回のクーデターが起きたのです。

 

 植民地時代、独立の声をあげた反英独立組織「ビルマ独立義勇軍」は志を持ち、独立を勝ち取ったが、民政化を目指す国民にとって本当の独立は1962年以降から進んでいないのではないだろうか。

 彼らが描いたミャンマーの理想像は何だったのか。世界が今回のクーデターで学んだのは、軍事力が内政の全てを掌握すると「武力行使」での支配色が強まるということを改めて認知させられました。世界の注目がまたミャンマーに向けられていますーーーー。