時を放浪

今の「リアル」を発信

虚無

高校生の時に大学で勉強したい分野ってありましたか?今は政治行政を専攻していますが、私は「宗教学」「心理学」を学びたいと考えていました。きっかけはオウム真理教です。新興宗教に出家したいではなく、出家した若者は何の魅力に惹かれたのか。その中にある「宗教」とは何か。そして麻原彰晃と信者の心理状態はどのような状態だったのかを研究してみたいと思っていました。

 

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時は早いもので3月20日を迎えたら、地下鉄サリン事件から25年を迎える。死者は13人、負傷者は6000人以上。化学兵器を利用した無差別テロ事件です。なぜ彼らはただのヨガサークルから国家転覆を狙うテロ組織に変わっていったのか。今回はオウム真理教をテーマに話していきたいと思います。

 

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日比谷線を含む3路線

2018年に死刑が執行された麻原彰晃こと松本智津夫。彼は「オウム真理教」を創立させ、犯罪史上最も最悪な犯罪者と言われている。渋谷で開かれていた小さなヨガ教室。そこで指導していたのが麻原彰晃だった。彼は座ったまま宙に浮く写真を出版会社に売り込み、雑誌に掲載され注目を浴びた。麻原はインドで修行を積み悟りを開いた。日本で唯一の最終解脱者と称し、誰でも修行をすれば超能力者にもなれると説いていたのだ。

 

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若者を中心に入会希望が増えていった。

※ 最終解脱煩悩などから解き放たれ輪廻天性からも自由になった状態のこと。

 

なぜ多くの人がオウム真理教に取り込まれていったのか。1980年代は高度経済成長期で通称「バブル」の時代。当時は3高高学歴、高収入、高身長)など目に見えるモノが全てだった。しかし時代に乗れず苦しむ者、時代に嫌悪感を抱く者、生き方に悩む者も溢れていた。その人たちは真逆の目に見えないモノに幸せを見出し希望を抱いていた。そこに麻原彰晃は入り込んで行ったのだ。84年にはオウム神仙の会と名称変え発足。発足当時は15人だった信徒が設立3年で1300人にまで数を伸ばした。徐々に拡大を広めていった。

 

正直リーダーシップだけを見れば麻原彰晃はカリスマ性があると言える。でなければ1万人を超える信徒は確保できないだろう。しかし高校生から気になっていた事が1つある。麻原を動かす原理だ。彼は何がきっかけで何を思い新興宗教を立ち上げ、何を軸として行動していたのか。沢山の本と記事を読み漁り、わかってきた事がある。彼の中には「承認欲求」が常に存在し続けていたことだ。それを知れる1つのエピソードがある。彼が盲学校に所属し小学校の児童会選挙に落選した時のことだ。職員室の前で彼は泣きながら言った。「先生が落としたんだ。みんなに『票を入れるな』って言ったんだろう」 教員は驚き「なんでそんな事をすると思うの?君はみんなに好かれているんだろ?」と聞いたら麻原はこう答えた。「うん。3ヶ月も前から『よろしく』ってみんなにお菓子を配っていたから。」と答えた。彼は王様であり続け、誰かに認めてもらいたかったのかもしれない。そして誰よりも人を怖がっていたのかもしれない。実家が貧乏だったからこそ力に固執していた。しかし彼を満たせるものはなかった。

 

そんな彼が作った「オウム真理教」は1988年から少しずつ歯車が狂い始めた。その1つが組織内で修行中信徒が死亡したことだろう。麻原彰晃はこの事件がマスコミに出ることを恐れた。自分たちの活動に支障が生まれるからだ。これを隠すため教団は秘密裏に遺体を焼却し骨を湖に捨てた。その場に立ち会っていた別の男性が教団に脱退を申し込んだが、表沙汰になるのを恐れた教団は男性を殺したのだ。この時には「殺人教団」の片鱗が現れていたのかもしれない。そして89年。ある事件が起きる。

 

坂本弁護士一家殺害事件聞いた事があると思う。坂本弁護士は「被害者の会」を結成し、出家した子供を返して欲しい親たちと共に立ち向かった人権派の弁護士だ。しかし麻原はオウム真理教の活動を邪魔されたくなかった。自分の作った世界、そして考えを否定されたくなかったと思う。そのため被害者の会を仕切る坂本弁護士殺害を考えたのだ。死体は家族別々のところに捨てられ、事件から6年後に全員の遺体が見つかった。

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坂本弁護士、妻、1歳の長男が殺された

しかしオウムは1つの失敗をしてしまう。殺害した坂本弁護士の家に自分たちの服についてるボタンを落としてきてしまったのだ。これによりオウム真理教は一気に殺害容疑がかかり世間はオウムを疑った。しかし教団は真っ向から殺害を否定。時間が経つにつれ、容疑は薄れてしまった。

 

そして麻原彰晃は宗教から政治へと舵を切り出す。それが衆議院選挙への出馬だ。90年には麻原を始めとする25名が出馬を表明した。しかし選挙で惨敗を味わうのだ。7000人を超える信徒がおり、影響力も大きかった。しかし選挙では1783票しか獲得できなかった。彼は勘違いしていた、教団に入信する数の多さが自分たちの人気にリンクしていると。つまりは麻原は教団での評価と世間から見られる評価の違いを理解していなかった。彼は自分たちを馬鹿にする世間を許せなかったのだろう。選挙敗退後、彼は信徒にこう言った。「私は6万票は取れるはずだった。選挙管理委員会がらみの大きなトリックがあった可能性が高い。国家権力による妨害だ」と。自分が築いてきた1つの王国と尊師としてのプライドを守りたかったのだろう。この頃から麻原は被害妄想が激しくなっていたという。

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真理党を結成し、何億とつぎ込み望んだ。

選挙の惨敗。これにより教団は暴走の拍車がかかる。政治から武装にシフトをチェンジしていった。その一歩目がロシアへの進出だ。武器の製造は国から目がつけられてしまう。そのためモスクワ支部開設に伴い大型ヘリや自動小銃を手にしていた。しかも恐ろしいのはモスクワでの拡散力だ。日本では最多で信者が1万人以上いたとされている。しかしモスクワでは約3万人以上が信徒として存在していた。

 

武器を手に入れた麻原は1つのフレーズを繰り返し言うようになりました。「ハルマゲドン」です。ハルマゲドンとは新約聖書ヨハネの黙示録」に書かれた世界の終わりに起きる最終戦争のことで、これに巻き込まれると言い始めたのだ。最終戦争つまり人の数を減らそうとしたわけです。そのために教団で開発された化学兵器が「サリン」なんです。当初の計画ではサリンをモスクワで購入した大型ヘリを使い、空からばら撒く計画が練られていた。

 

オウムと言ったらサリンと思う程皆さんにはイメージが強いでしょう。元々サリンとは第二次世界大戦ナチスによって開発された化学兵器です。当時のヒトラーはこれを飛行機からばら撒く計画を練っていましたが。さすがにヒトラーサリンをばら撒くのはやめるほども兵器でした。その兵器を人体実験として使われた場所が長野県松本市「松本サリン事件」です。1994年6月27日に事件は起きました。僕の住んでいる松本市で猛毒な化学兵器が撒かれたんです。経緯はオウム真理教松本市に施設を作ろうとしましたが市民が猛反対。その裁判も松本裁判所で行われていました。結果としてオウムは施設を建設ができず、その逆恨みにサリンを撒布したと言われています。これが日本で起きた初めての化学兵器テロだった。

 

この松本サリン事件は猛毒が撒布された事件でもありますが、冤罪・報道被害が生まれた事件でもあります。詳しい話は別物としてお話ししたいと思います。

 

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死者8人、負傷者140人のテロだった。

そして次の年の3月20日「地下鉄サリン事件」が発生します。この事件を機に警察もオウム真理教第6サティアンに踏み込み、1995年5月16日麻原彰晃は逮捕。事件は解決しました。オウム真理教関連での死者は27名。負傷者は6000人以上。日本史上最悪の犯罪者でそれらを指揮していた松本智津夫は2018年に死刑が執行された。死刑判決を受けた人は合計13名。6人は無期懲役が確定している。

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「承認欲求」は何をしても満たされる事はなく、彼は完璧な人間に少しも近づく事が出来なかった。麻原彰晃を演じる事しかできなくなったのだろう。尊師を演じるために沢山の嘘を重ね、行き着いた先は虚無でしかなかった。私が松本智津夫を悲しい人と思った本人の言葉を最後に残して終わりとする。

 

「 一生聖者のふりをすれば、聖者なんだ 」

 

 

 

 

 

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